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東京高等裁判所 昭和60年(う)636号 判決 1985年10月18日

被告人 吉野信明

昭二二・一・一三生 不動産業手伝

主文

本件控訴を棄却する。

当審における未決勾留日数中一六〇日を原判決の懲役刑に算入する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人本田敏幸が提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官提出の答弁書にそれぞれ記載してあるとおりであるから、これらをここに引用する。

一  覚せい剤の譲受け行為に関する事実誤認、訴訟手続の法令違反の主張について(控訴趣意第一、一、第二、一、三、四)

所論は、要するに、本件覚せい剤の譲受け行為に関する事実は、(一)本件捜査がおとり捜査として容認される限界を越えているのであるから、憲法一三条、三一条の規定によれば被告人を有罪とすることが許されないのに、右各規定にしたがわずに被告人を有罪としている原判決には訴訟手続の法令違反があり、(二)本件はおとり捜査に基づくものであるから、(1)その結果得られた証拠は違法収集証拠として排除すべきであるのにこれによつて事実を認定している原判決には事実誤認があり、(2)被告人の行為は違法性、有責性を欠くのに、これらを肯定して有罪としている原判決には事実誤認があり、(三)仮に無罪でないとしても、被告人の行為は周旋あるいは譲受けの幇助犯に過ぎないのに、譲受け未遂の共同正犯の事実を認定している原判決には事実誤認があり、いずれも判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

そこで、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果を加えて検討すると、原判決が争点に対する判断として「一 おとり捜査の主張について」、「三 被告人吉野の加功の程度について」の項において示すところが肯認でき、原判決に所論指摘の訴訟手続の法令違反、事実誤認があるとは認められない。すなわち、まず、おとり捜査の点について考えるに、関係証拠によれば、本件の検挙にあたつておとり捜査が行われた疑いはあるが、覚せい剤等の薬物事犯は、その授受が関係者の間で極秘になされるのが通例であり、直接の被害者もいないことが多いため、通常の方法による捜査では証拠の取得、保全及び犯人の検挙が著しく困難であり、かつ、覚せい剤等が社会に甚大な害悪を及ぼすものであることを考慮すると、この種の事犯の捜査においては捜査官あるいはその協力者が覚せい剤等の取引に関与していると目ぼしを付けた者に近づき、覚せい剤等の入手を申し込み、それに応じて取引が行われるときその関係者を逮捕するいわゆるおとり捜査の方法を利用することも一定の限度で容認されるものというべきであり、本件において、捜査官は本件取引に先立ち被告人が覚せい剤を所持し、その取引にも関与しているとの情報をあらかじめ入手していたものであること、被告人は山下某からの覚せい剤入手の求めに応じてこの話をかねてから覚せい剤を扱つていると聞いていた原審相被告人中根繁樹にもちかけ、同人がこれを更にいわゆるネタ元に通した結果本件取引が行われるにいたつたものであるが、被告人らの本件覚せい剤取引に関する行動はその正常かつ自由な意思決定に基づいて行われたものであること、その他本件取引の経過並びに被告人らが逮捕されるに至つた経緯など関係証拠により認められる諸般の事情を総合して判断すると、右山下某が捜査官の協力者である疑いが残り、本件において前記のとおりおとり捜査が行われた疑いはあるものの、そのおとり捜査が容認されるべき限度を越えたものとは考えられない。したがつて、(一)右限度を越えたことを前提とする訴訟手続の法令違反をいう所論は採用できず、(二)(1)本件捜査が重大な違法を含むものであるとは認められないから、右捜査によつて得られた証拠は違法収集証拠として排除すべきものではなく、これによつて本件事実を認定した原判決に所論の指摘する事実の誤認があるとは認められず、(2)他人の誘惑により犯意を生じ、またはこれを強化された者が犯罪を実行した場合に、誘惑者が捜査機関あるいはその協力者であるとしても、その一事をもつて犯罪実行者の違法性または責任を阻却するものではない(最高裁判所昭和二八年三月五日第一小法廷決定・刑集七巻三号四八二頁、同昭和二九年九月二四日第二小法廷決定・裁判集刑事九八号七三九頁参照)から、本件においておとり捜査が行われた疑いがあるからといつて被告人の本件所為の違法性、責任が阻却されるものではなく、本件事実について被告人を有罪とした原判決に所論の指摘する事実の誤認があるとは認められない。次に、被告人の加功の程度について考えるに、関係証拠によれば、本件において被告人は覚せい剤の買主になろうとしたのではないが、買主となる山下某らと本件譲受けの犯意を通じ合つたうえ、買主側の立場において売主(いわゆるネタ元)側の立場にある中根繁樹との間で本件取引の日時、場所、目的物、価格、決済方法等を取り決め、右山下らと共に取引の場に赴き、取引の成立のために重要、不可欠な役割を積極的に分担したことが認められる。したがつて、(三)被告人の本件所為は覚せい剤の譲渡と譲受けとの周旋あるいは譲受けの幇助に止まるものではなくて、譲受けの共同正犯というべきであるから、本件について被告人が山下らと共謀のうえ営利の目的で覚せい剤を譲り受けようとしたが未遂に終つた事実を認定した原判決に所論の事実誤認があるとは認められない。

結局、各論旨はいずれも理由がない。

二  覚せい剤使用の事実に関する不法に公訴を受理した違法、事実誤認の主張について(控訴趣意第一、二、第二、二、三、四)

所論は、要するに、本件覚せい剤使用の事実は、(一)被告人は昭和五九年五月一七日に使用したことを認めているところ、静岡地方検察庁沼津支部の検察官は同年同月一八日別件覚せい剤取締法違反事件に関し被告人が事情聴取に応じることの条件としてそれまでの被告人の覚せい剤使用の件は不問に付すると約束したのであるから、この約束に違反して本件を起訴したのは公訴権の濫用であり、公訴を棄却すべきであるのに、右約束の存在を認めず、公訴を棄却しなかつた原判決には公訴権の行使に関する事実誤認、法令適用の誤り、不法に公訴を受理した違法があり、(二)被告人から採取した尿についてした鑑定の結果からだけでは被告人が本件日時において覚せい剤を使用した事実を認定することができないのに、被告人が覚せい剤を使用した旨の事実を認定した原判決には事実誤認があり、右各事実誤認、法令適用の誤りはいずれも判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

そこで、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果を加えて検討すると、(一)所論にかかる約束があつた事実は認められない(被告人も原審公判廷において騙されたとは思つていない旨を供述している。)し、その他本件公訴提起が公訴権の濫用であることをうかがわせる状況は認められないから、原判決に不法に公訴を受理した違法があるとは認められない。なお、所論中には、公訴権の濫用に関する事実誤認、法令適用の誤りをいう点があるが、これは右不法に公訴を受理した違法の主張の論拠として挙げられているものであると認められるところ、これらを採ることができないことは右に示したところにより明らかである。(二)原判決は覚せい剤使用の点について所論指摘の技術吏員川口公明作成の昭和五九年六月七日付鑑定書(奈防発第七一号に対するもの)のほかに司法巡査作成の同年六月一四日付写真撮影報告書、被告人の検察官(同年八月二九日付)及び司法警察員(同年六月一三日付、同年八月二日付)に対する各供述調書を挙示しているところ、これらを総合すれば原判示事実は優に肯認することができるから、所論は採用できない。

結局、各論旨はいずれも理由がない。

三  量刑不当の主張について(控訴趣意第三)

所論は、要するに、原判決の量刑が重過ぎて不当である、というのである。

そこで、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調べの結果を加えて検討すると、本件は覚せい剤譲受け未遂、同使用各一件の事犯であるが、動機において酌量の余地はなく、覚せい剤取締法違反の累犯前科を有するのに約三キログラムという大量の覚せい剤の仕入れに関与し、かつ、自ら使用したものであつて、被告人の刑事責任は重大であるといわなければならない。そうしてみると、本件覚せい剤譲受け未遂の事犯の発端が捜査機関の協力者である疑いのある山下某から覚せい剤の入手方の依頼があつたことにあるのに山下某が刑事責任を追及されていないこと等所論の指摘する諸事情のうち肯認することができるものを十分に考慮しても、被告人を懲役四年及び罰金二〇万円に処した原判決の量刑が重過ぎて不当であるとは認められない。論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、刑法二一条により当審における未決勾留日数中一六〇日を原判決の懲役刑に算入することとし、主文のとおり判決する。

(裁判官 内藤丈夫 本吉邦夫 阿部文洋)

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